2025年は、第二次世界大戦終結から80年を迎えました。多くの犠牲者が出た戦争の記憶が、どんどん風化していくなか、平和のために私たちができることはなんでしょうか。この特集は、木田地区の戦争にまつわる物語や出来事を未来の世代に伝えるために取材しました。

 明倫中学校に、昭和24年から31年に在籍した生徒たちが、夏休みの宿題で書いた作文「生い立ちの記」が保存されています。そこには、戦前戦後の暮らしや昭和20年の福井空襲、昭和23年の福井大震災の体験などが、子どもたち自身の言葉でつづられています。

 昭和20年(1945)に戦争が終り、日本国憲法が公布され、戦時中の国民学校から、小学校、中学校、高等学校、大学という新たな学校制度が誕生しました。明倫中学校は、昭和22年、木田・豊・足羽を校区とする福井市第一中学校として開校しました。空襲で全焼した後の木田小学校のバラック教室と、幸い戦火を免れた豊小学校の教室を借りて授業を行っていました。そして、昭和23年の福井大震災の後、昭和24年に校舎が建設され、生徒から募集した校名をもとに新校名が決定。こうして、第二次世界大戦後の廃墟の中から、明倫中学校ができました。

 昭和24年の生徒たちの作文を紹介しています。子どもたちの素直な作文をぜひ読んでみてください。

昭和29年木田小学校・明倫中学校共同の校門の写真(笏谷石でできた校門は現在木田小学校に保存されています)

 木田地区遺族会会長の冨田武司さん(90)は、1945年7月19日の夜、空襲警報が鳴り響いたその時に小学4年生でした。母親と7つ下の妹と、当時の家から外に飛び出し、頭上に飛ぶ米軍機から焼夷弾の雨が降り注ぐ中、恐ろしく、ずっと空を見上げて必死に逃げました。たどり着いた足羽川の河川敷から、自宅が燃えているのが見えたそうです。

 福井空襲では、約9000発の焼夷弾が落とされ、1500人以上が犠牲となりました。

 翌年、出征していた父・与一さんの戦死公報が届き、お寺で渡された骨箱の中には小さな石が一つだけ入っていました。バス運転手だった与一さんに赤紙が届き、出征したのは昭和18年。万歳三唱でお祝いし、福井駅まで見送った与一さんは、舞鶴港から佐世保を経由し、現在のパプアニューギニアに送り込まれていました。終戦から数十年後、冨田さんは部隊の戦友から、与一さんがマラリアに感染し、小さな島で戦友に見守られながら静かに息を引き取ったことを聞くことができました。冨田さんは、父親がどんな場所で亡くなったのか、足跡をたどろうと、平成20年、国の遺骨収集団に参加し、ニューギニア東部の19日間の調査により114柱の遺骨を収集しました。

 冨田さんは、福井県遺族連合会の「平和の語り部」として、戦中の様子や空襲の悲惨さを伝える活動を続けています。

当時小学生だった牧野さんの絵

 米軍基地の歴史は、第二次世界大戦終結後の日本占領に始まります。木田地区にもそんな時代のエピソードが残っています。昭和32年(1957)2月21日午前9時半ごろ、米空軍のヘリコプター1機が木田小学校校庭に不時着しました。翌日の新聞が、当時の模様を次のように報じています。

『吹雪の21日午前9時半ごろ、福井市木田町の木田小学校の上空にブルンブルンとすさまじい音がしたかと思うと、いきなり長さ約15メートル、直径3メートルもあるヘリコプターが校庭へ舞下りた。びっくりしたのは同小学校の先生や生徒たちで、授業もやめて約300人の生徒が機体のぐるりをとりまき大騒ぎとなった。やがて福井署からお巡りさんがかけつけ、明倫中学校の校長室で青い目のパイロットと英語科の井上諒子教諭と問答の末、同機は米軍伊丹基地のH21型(通称空飛ぶバナナ)と分かった。同日朝9時に小松飛行場をたって伊丹へ向かう途中、吹雪のため視野がきかなくなったので不時着したのだが、乗組員3人や機体は無事だった。福井あたりでは初めてみる大型ヘリコプターだけに、近所の人達が100人ばかり押寄せ、木田小学校の男女まじえて50人ばかりの学童が、乗員をつかまえてサインをねだるやらなかなかにぎやかな事故になった。そのうち雪が小やみになったと思ったらこの珍客は、みなさんサヨウナラと再び空へ飛びたった。ちょうど午前11時だった。』

 鉄製で重さが約35キロもある、この焼夷弾の弾頭(おもり)は、木田地区の加藤秀次さん(79歳)が、自宅で長年、稲わらの束をたたく土台として使いながら保管していました。お父さんから畑で拾ってきた戦争の遺物だと聞いていました。戦後80年の昨年、加藤さんは歴史博物館などで調べ、投下された後、空中で分解し、ナパーム剤が入った子爆弾がばらまかれる焼夷弾の弾頭部だと分かりました。福井県立歴史博物館が調査し、公開される予定です。

焼夷弾の仕組み(福井空襲史)

 出征旗(しゅっせいしゅくき)は、家族や地域の人々が戦争に出征する兵士の武運長久を祈って送った旗です。兵士にとってはお守りのような心の支えで、故郷とのつながりを保つための大切なものでした。 

 岩佐友次郎さん(故人)は、木田町にあったフジパン本社工場の創業者です。岩佐さんは、昭和23年に旧満州(現中国東北部)から帰国した後、パンの製造を始め、昭和39年フジパン工業株式会社を創業。戦後の食生活改善や学校給食用パンの普及に貢献されました。趣味の菊づくりを指導していた岩佐さんを偲んで、毎年、木田公民館まつりの菊友会展示では「岩佐友次郎賞」が贈られています。